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new_01_red.gif①pixivBOOTHにて「fourteen years old 侵蝕恋愛 side storyⅠ」ダウンロード頒布開始いたしました。②pixivBOOTHにて「侵蝕恋愛Ⅴ 歴史の花冠」ダウンロード頒布開始いたしました。
③ご用のある方はこちらからどうぞ→mail_02_bla.gif

coral talk

毎月発表すると標榜した掌編第一弾は、とある海の生物視点のお話です。
coral、つまり珊瑚のお話です。
珊瑚には「単体サンゴ」と「群体サンゴ」とがあるらしいのですが、このお話のサンゴは後者の「群体サンゴ」にあたります。サンゴはポリプと呼ばれる構造をもつのですが、このポリプが分裂出芽を繰り返して生じたクローンが、分離することなく集まって生活するものを「群体サンゴ」と呼びます。(Wikipediaより)
幾つもの「私」が集まってできた自我とはいかなものなのか。
ちょっと耽美で不思議で不気味なお話(を目指した)を、お楽しみください。
それでは、どうぞ。


20180103_2.jpg
イラスト/coral/水彩(スパッタリング・吹き流し・コラージュ)
 
 ひらひらと目の前を、色鮮やかな着物まとった魚が横切ります。魚の袖が頬をくすぐる感触に、私は身震いします。
 私は幾重にも分かたれた私の硬質な身体を伸ばし、海水が身体を撫でる感触に身を委ねます。
 え、私というのはどの私のことなのかって?
 そんなのどうだっていいことじゃないですか、あなたがたは本当に個というものにとらわれておいでなのですね。
 まるで人間のよう。
 彼らは私たちにとって最も理解しがたいものの一つです。
 今私は私のことを「私たち」といいましたね。
 私は私という個であると同時に個を包括した全体でもあるのです。
 難しいですって?
 ですからそんなことはどうでもいいのですよ。
 そんなさまつなことは。
 ところであなたどなた?
 それすらもどうでもいいことですわね。
 ほほほ。
 人間といえば、あなた知っていて。
 人魚姫!
 ついこの間──といってもそれは「ある私」にとってははるか昔のことでもあるのだけれど──とうとう禁を破って人間の男に会いに行ったのですって。
 あの美しい声と尾鰭を代償に。
 私は何度もやめなさいっていったのよ、あんな危ない魔女の作った薬に手を出すのなんて。でもあの娘ったら、頑として聞かなくって。まったく、かわいい顔して頑固なんだから。
 おかげで彼女ったらヤク中になっちゃって、最後は訳分かんなくなっちゃって、海の藻屑となって消えちゃった。
 文字通り、海のエキスとなって溶けちゃった。
 どろっどろ。
 あの娘も私たちの仲間になりたかったのかしらねぇ。
 ねえあなた。
 おほほ。
 え、ヤク中っていい方はないんじゃないかって?
 じゃあジャンキー?
 もっとひどいって?
 分からないわね、だって恋っておおむねそんなものじゃない。
 人魚姫もイルカの群れも川と海を行き来する鮭の大群も砂をまき散らしながら突進するウミヘビたちも命をつなぐため毎度毎度へこへこへこへこ、必死こいてがん首そろえてる姿をジャンキーといわずしてなんというのよ。
 私たちのように優雅に振る舞えないのかしら。
 え、私は優雅という言葉から一番遠いですって?
 ジャンキーなんて言葉を平然といい放てる生き物が優雅なはずないって?
 まぁっ、失礼しちゃう!
 怒りのあまり薄紅色の可憐な身体がゆでだこになってしまうわ。
 あ、蛸はいらっしゃらない?
 あの方、自分が人間に捕まってゆだってしまうのがなによりの恐怖なのよ。
 私がこんなこといってるってばれたら、墨でお顔が真っ黒になっちゃう。
 そうよ、人間に目をつけられたら、蛸も私も終わりなんだから、あなた、言葉には気を付けてちょうだいな。
 お願いよ。
 ひっそりと息を潜めて生きてる意味がなくなっちゃう。
 私がどれほどの時を生きてきたのか──。
 もう定かではない。
 何しろこっちの私は数千年前に生まれたと主張するし、あっちの私は昨日誕生したなんてまことしやかにささやくのよ。そんな私にとって時間なんてものはてんで当てにならなくて、つまり、うろんなもの。
 個もそうだと思うのよ、うろんであいまいで中心は空洞なのに、みんなさもそこに何か大事なものがあるとでもいわんばかりに、意味を付与したがるのね。人魚姫は、空っぽの宝箱を無理やりこじ開けた先にあるのは希望じゃなくて絶望なんだってことに気付いてしまって、ビョーキをこじらせてしまったのよ。
 え、じゃあなんていえばいいのよ。
 ジャンキーていうよりはよほどいいじゃない。おまけに詩的ですらある。
 ああ、私、生まれ変わったら詩人になろうかしら。
 なんて冗談。
 生まれ変わるのなんてまっぴらよ。
 私は私が私であるために必要な、このいくつもの私で構成された身体を捨てたくない──。
 いつまでもこの桃色の牙城を海の底に張っていたい──。
 人魚姫もバカ王子も、バカ王子を助けたのは自分だと騙ったあばずれも──だからごめんなさいってば、人間たちの野卑な言葉が船底を伝って聞こえてくるのよ──、個なんてものにすがりつかず三人でくっついちゃえばよかったのに。そうしたら王子はどっちの女も手に入れられるわけだし、人魚姫は愛を成就できるわけだし、あばずれは目障りだけれど──そこはほら、個というものに目をつぶって三人で『お愉しみ』すればいいわけだから──誰もかれもが幸せになれると思うんだけれど、私、間違っているかしら。
 え、もうこれ以上私と話していたくないですって?
 気分が悪い?
 ちょっとお待ちなさいな、あなたはしばらくぶりのお客様なのに。
 ……。
 ええ、そう、そうね。
 私たちでお話しすればいいいわね。
 私としたことがつい、振り乱しちゃって。
 みっともないわ。
 久しぶりにあっちの私とお話ししてみようかしら。
 それとも生まれたばかりの私と?
 楽しいわね。
 これ以上ないくらい充足してるわね。
 けれど、どうしてかしら。
 私、今、立ち去ったばかりのあの方のことを、猛烈に「自分以外のもの」と意識している。
 それってつまり──。
 ああ、やめ、やめ。
 こんなことを考えるのは「私」らしくないわ。
 こんな「私」はさっさと破棄、破棄。
 ポキッ!
 さあ、新しい私、こんにちは!
 ところで、視界の先にぷかぷか浮かぶ桃色の枝、あれはいったい『どなた』かしら。
 ねぇ、『あなた』?
 おほほほほ!
(2018年1月 書き下ろし)
2018-01-25 : ■掌編/短編 : コメント : 20 :
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《給餌》

毎月発表すると標榜した掌編第二弾は、耽美系SFとでもいうべき謎の医療機関を舞台にしたお話です。
これは、わたしがぼんやり妄想していたものの一つで、いつか長編で書けたらなぁ、と思っているお話です。
注目していただきたいのは題名にもなっている《給餌》という単語です。
「《給餌》(かっこあり)」と「給餌(かっこなし)」と
書き分けされているところにご注目ください。《給餌》というのは、一体なんなのか。そこはかとなく淫靡な匂いを感じ取っていただけたら成功です。
語り手は新人研修生のかいという青年。(22〜3歳位を想定しています)
まだまだ妄想の域を出ないので、いろいろ詰めが甘いんですが、雰囲気だけでもお楽しみいただけると幸いです。
それでは、どうぞ。


20180106_8.jpg
イラスト/櫂/デジタル
 
「検体F−52208102の《給餌》に入る。ああ、かい、君は検査に入ってくれたまえ。指示は妻……失礼、ヴァネッサに仰いで。私は作業に入る」
 白衣がひるがえり完璧な弧を描く。
 と思ったときには、扉は僕を拒絶するように遮断された後だった。
 上部に備え付けられたランプが緑から赤に点灯する。
 《給餌》に入ると、セラート医師は当分この部屋から出てこなくなる。これからヴァネッサ女史と二人きりになれるのだと思うと、頬が緩んだ。
 僕はしばし陶然となりながらその壁とほとんど一体化している扉の前で立ち尽くしていたが、両頬をぱしんと叩くと踵を返した。

※※※

 果たして持ち場に向かうと、僕のもう一人の「教育係」であるところのヴァネッサ女史が、皮肉な面持ちで待ち構えていた。太腿と解け合ったタイトスカートからは、すらりとした脚が伸びている。
「あの人、《給餌》に入ったんですって?」
 鼻腔を貫く強烈な香気に、身体がかっと熱くなる。ヴァネッサ女史のきれいに巻かれた髪が頬に触れる。「あなた、《給餌》見たことある?」
 ほとんど吐息のように、ヴァネッサ女史が給餌、と僕の耳に吹き掛ける。セラート医師と同じ独特の発音。肩に添えられた左手の薬指には金色の指輪。ヴァネッサ女史の薬指にはあって、セラート医師の薬指にはないもの。
「給餌っていい方はどうなんですか。そりゃ、検体に必要以上に入れ込むのはどうかと思うけど、そういうのは非人道的だと」
 彼女を前にすると僕は自分がことさら朴訥な口調になることに気付いていたけれど、僕はそれを改めるばかりか、悪のりするようにさらに彼女を上目遣いで見遣る。彼女が激昂するであろう、ある一言を効果的に演出するために。「F−52208102っていう呼称だってそうだ、彼女はとってもかわいらしい少女なのに」
「臓器培養体よ!」
 いいぞ。
 ぴしゃりと打ち付けるようにいい方に、皮膚がぞわぞわっ、とあわ立つのが分かった。
 僕は「だからそういういい方はどうかと」などとたしなめがら、彼女のその実下がり気味の口角などを観察している。だらしない唇とは裏腹に、嫉妬に燃え上がった横顔は鋭利なナイフのようだ。だが全体として、彼女の肉は重力に逆らい切れていないような印象を与える。
 セラート医師やF−52208102にはない腐敗臭が彼女からはする。
 セラート医師のことは尊敬しているが、僕は彼といると、時々自分が無菌室にいるような錯覚にとらわれることがある。
 指輪一つ取ってもアシンメトリーを描いている彼等夫婦は、精神のありようにおいても、無菌と腐敗という非相似性を描いているのだった。
「だけど、奇妙ですよね。給餌っていうからには栄養を与えるわけでしょう。けれどあの部屋には生命維持装置のチューブが備え付けられてあるだけで、F−52208102の鼻にも胃にもチューブが繋がれているような形跡はない。まさか口から摂取するわけでもなし、意識がないんだから。一体セラート先生はどんな方法でもって給餌なさっているんだろう」
「経口食よ」
「え?」
 投げやりな断定口調に思わず僕は疑問符を投げ掛けていた。「え」の形に開いた僕の口が閉じ切らぬうちに、彼女は素早くいい継ぐ。「F−52208102はお口でごくごく飲んでるの」
 見てきたようにいう。
 彼女にしては子ども染みたいい方で、露悪的な響きもある。
「……貴女はF−52208102の給餌に参加したことがあるんですか」
 多くの医療施設がそうであるようにこの医局ご多分に漏れず不透明で、給餌は担当医以外誰もその全容を知らない、という異様な現実がある。M−30014991には何某なにがしの医師が、F−72051681にはそれがしの医師が、というふうに、給餌の担当医はかたくななまでに固定されている。それに拍車をかけるように、給餌は必ず密室で執り行われる。
 畢竟ひっきょう、給餌は、担当医以外誰もその全容をうかがい知ることができない。
 彼女の発言は、その絶対のルールに「隙」があることを示すものだった。
 僕のそうした疑問が顔に表れ出ていたのだろう、ふいに彼女が肩の力を抜いて笑った。
「わたしが《給餌》できるわけないじゃない」
 どこか諦念すら感じさせる、萎んだ風船のような表情。
 だが次の瞬間には、彼女はいつもの調子を取り戻していた。
「ねぇ、人間の身体には幾つ穴があると思う」
 ヴァネッサ女史の両腕が僕の首に巻き付く。
 彼女一流の戯れだということは分かっていたが、彼女の豊満な乳房が僕の身体で潰れる感触は嫌いじゃなかったので、僕はいつも通り彼女の余興に付き合うことにした。
 これは不貞じゃない、不貞じゃないぞといい聞かせながら。
「そうですね、まず眼窩」
「それから?」
「耳」
 彼女がくすぐったそうに身をよじる。僕が彼女の耳朶に唇を寄せたからだ。
「鼻」
 彼女の小鼻は、脂ぎっていた。よく見ると黒ずんだ毛穴がぽつぽつと浮かび、化粧でもごまかしきれない加齢がそこかしこからにじみ出ている。
 いいぞ、いいぞ。
 何しろ僕はあの無菌男と毎日一緒にいるのだ。
 そうして顔に開いた最後の穴、すなわち唇に到達した僕たちは、当然のように唇を合わせた。
 小鳥のついばみのようなキス。
 不貞じゃない、不貞じゃない。
 しかし手のひらは汗でびっしょりだった。
 いつもならここでゲームは終了のはずなのだが、ふいに彼女が僕の内心を見透かすようにいった。
「今日は下の穴も試してみようよ」
 僕はさぞ間の抜けた顔を晒していたことだろう。
 僕は彼女の「下の穴」発言に、不覚にもつまずいてしまったのだった。
「えーと、首から下ってことですかね」
 僕はまたぞろ朴訥な青年に舞い戻る。
 そうすることで彼女の追随から逃れられるわけでもないのに。
 必死に考えを巡らせるのだが、頭に浮かぶのは打開策ではなく、見たこともないヴァネッサ女史のしなやかな身体。
 無菌男に刺されたらたまったものではないぞ。
 とそこまで考えて、あの潔癖な医師は、たとい妻が他の男と寝ても眉一つ動かさないのだろうと思った。
 そうすると狼狽するのも急にばかばかしく思えて、ゲームの続きに興じる気になった。
「ぱっと思い付く限りでは、へそですかね」
「生まれ立ての赤ちゃんと母体が繋がるところだわ」
 ヴァネッサ女史の爪が僕の白衣に食い込む。
 真紅に染められたきれいな爪。
 彼女はどうして爪を整えるのだろう。
 何のために?
 ……誰のために?
「赤ちゃん」という語句が、僕に絡み付くようだった。
 それこそへその緒のように。
「次の穴は……」
 突如ヴァネッサ女史が口ごもり、うつむいた。
 彼女と無菌男は性交渉がないのではないだろうか。
 水の波紋のように突如真実が広がる。
 眼下には彼女の意外にかわいらしいつむじ。
 このいとけないつむじを見ていると、僕は僕がこれまで目を逸らし続けてきた彼女の心にとっ捕まってしまうような気がする。
 寂しさをたたえた彼女の沼に取り込まれてしまうような気がする。
「……それが、《給餌》の正体」
「……何?」
 答える気など到底ないというように、彼女が疲れきった口調でぽつりといい捨てた。
「あんたには《口径》がある、あの人にもある、そういうことよ」
 てきぱきと、彼女が指示を口に出す。
 僕は呆然とした思いで、スイッチが切り替わったように機敏に動く彼女を、風景を見るように眺めていた。

※※※

 僕は頃合いを見計らうと、適当にいい繕って持ち場を後にした。ヴァネッサ女史は僕の目的を知ってか知らずか、中座する僕を引き止めるでなく案外あっさり解放してくれた。
「開けてっ、開けてくださいっ、セラート先生!!」
 開くはずはないと分かっていて僕は扉を殴打する。その背景にほとんど埋没している扉を。
 予想に反して扉はあっさり開いた。
 セラート医師がそこにたたずんでいた。
「ああ、君……」
 セラート医師がいつもの様子で僕の目をのぞき込む。
 セラート医師は僕の呼びかけに応じて扉を開いたわけではなく、《給餌》をちょうど終えたところのようだった。
 セラート医師の肩越し、検体F−52208102の仰臥するベッドが見える。薄く盛り上がった掛布が、彼女の線の細さを物語っていた。
 シーツはしわ一つなく整っている。
 《給餌》の名残を探している自分に気付いて嫌気が差す。
 そんなことあるわけないのに。
 僕はヴァネッサ女史の悋気の炎に当てられただけなのだ。
 きっとそうなのだ。
 セラート医師は別段中の様子を隠すふうでもなく、落ち着いた仕草でパネルのボタンを操作する。やがて扉は再び壁と一体化し、僕たち二人は廊下に閉め出された。
 僕は唇を舐め、意を決して口を開いた。
「……F−52208102の《給餌》はどうでしたか」
「お口でごくごく飲んでたよ」
 ぎょっとする僕をよそに、セラート医師が僕をちらと見た。
「……と妻ならいうだろうね」
 自分の妻が目の前の男と犯している放蕩ほうとうに気付いているのだろうか、僕はぞっとしない思いだった。セラート医師の笑みはほとんど腹立たしいといっていいほど完璧で、その唇は妻とは対照的に平行に引き結ばれている。
 この男の心は鉄壁の無菌である。
『次の穴は……』
 ヴァネッサ女史の声がよみがえる。
 僕は彼女の情念を振り払うように、医師の後ろに続いた。
(2018年1月 書き下ろし)
2018-02-25 : ■掌編/短編 : コメント : 16 :
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ヤクルトレディー

毎月発表すると標榜した掌編第三弾は、ブログ主の実話を元にしたお話です。
もちろん、本当のヤクルトレディーはこんなんじゃありませんよ(笑)
また、実はブログ主初となる、現代日本を舞台にしたお話でもあります。なので、わたしの作品をよくご存知の方がどのように思われるか気になりますね。ちなみに、日本は日本でも、今回は意識的にネット民向けにしてみました。
等身大の男性が主人公ということで、露骨な表現が出てきます。そういったものが苦手な方はご注意ください。
なお、ここに出てくる名称は本人及び団体とはまったくの無関係ですので、ご了承ください。あ、アイドルの『百坂檸檬ももさかれもん』だけは創作です。
それでは、どうぞ。


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イラスト/ヤクルト/水彩
 
 ピー、ピー、という脱水終了を告げる音に、俺はこたつから重い腰を上げた。玄関を出て、洗濯機の前に立つ。『ユニクロ』で買った毛玉だらけのスウェットに手を突っ込み、これまた『ユニクロ』でまとめ買いしたトランクスの上からち◯こを揉む。気合いを入れるときの俺のMy儀式だ。
「ふぁ〜あ……」
 伸びをして、洗濯機のふたを開ける。バスタオルやら靴下やら股引ももひきやらが絡まり合いながら、底のほうでドーナツ状に鎮座ましましている。子どもの頃、こんなCMがあった。確か『ミスタードーナツ』だったか。そんなことを思い出しながら洗濯物をかごに放り入れているときだった。
「あの〜」
「うぇあおえあああああぁ!?」
 俺は声にならない叫び声を上げて飛びのいた。
「あらあら、驚かせてちゃったわね、お洗濯中? 若いのに関心ねぇ〜、こんな寒空の中お外でお洗濯するのは大変じゃない!?」
 なんだなんだこいつらっ、どっから湧いて出てきやがった!
 フランス国旗みたいなウィンドブレーカーを来た男女三人組が目の前にたたずんでいた。赤と青と白というトリコロールカラーが、『寿荘ことぶきそう』の寂れた表情とあまりにそぐわない。
 俺は助けを求めるように外階段をちらと見遣ったが、そこにはただただ寒風にさらされた、鉄骨階段の痛々しげな姿があるだけだった。
 俺が『ミスタードーナツ』のことを考えている隙に忍び込んできやがったなこいつら!
 俺に声を掛けてきたおばさん(平野レミ似だった)がのたまった。
「今わたしたち一件一件お宅を回ってモニター様を探させていただいている最中だったんですよぉ〜、お客様がちょうど十件目のお宅で、ほら、こんな寒い日でしょう、皆さん中々お出になって下さらなくて……。よかった……最後にこうしてお話を聞いてくださる方に出会えて」
 斜め後ろにたたずんでいた男が、補足するようにいい添えた。(ちなみにこちらはサンシャイン池崎を真面目にした風だった)
「今日はお客様にヤクルトの良さを分かっていただこうと思い、訪問させていただいているんです」
 こいつらヤクルトの使いだったのか!
『寿荘』の周りには、ファミリー向けの小奇麗なアパートが多い。一軒一軒突撃していって、最後にこの『寿荘』にたどり着いたに違いない。今日び奥様方だって働きに出ているこのご時世、こんな平日のまっ昼間っから「モニター様@ヤクルト」なんかが見つかるわけがない。築二十九年『寿荘』(ちなみに俺と同い歳)に住んでいる夜勤フリーターとかならともかく。
 そう、俺のことである。
 平野レミの手腕は凄まじく、俺はいつの間にか数枚のチラシを握らされていた。チラシにはシロタ株がどうの、善玉菌がどうのといったことが、デフォルメタッチの糞のイラストと共に印刷されている。
 チラシに書かれてあるのと同じ口上が頭の上から降ってくる。
 店頭に並んでいるヤクルトと宅配でお配りさせていただいているヤクルトとではシロタ株の数が違うんですほらチラシにも載っております通り店頭販売のヤクルトは赤のパッケージ宅配用のヤクルトは青のパッケージとデザインも違いますでしょううんぬんかんぬん……。
 おばさんのビッグウェーブは、俺の東洋的日本的感性に裏打ちされた侘び寂び精神を、容易に飲み込んでいく。
 私どもが頑固に訪問販売にこだわり続けているのはヤクルトが規則正しく定期的に毎日飲むことで初めて効果が得られるからであってそうした習慣を作っていただくためにもこうして毎週お届けさせていただくべく訪問させていただいている次第でございまして……。
「というわけでございまして、私たちはこうしてお話しさせていただいて、ヤクルトの良さをわかっていただけたらと思い、訪問させていただいているんです!」
 と最後だけサンシャイン池崎風が引き取り、話を締めくくった。
 うそつけ!
 平野おまえめっちゃシロタ株シロタ株アピってたじゃねーか!
 と思わず声にならない一人突っ込みを入れるも、現実は悲しいかな、へらへらうすら笑いを浮かべる自分がいるばかりである。
 これはモニター様と称して、なし崩し的に契約させられるパターンだ。
 だがフランス国旗に囲まれた俺になすすべはない。
「で、でも、俺、今、金なくてですね、その……」
 やっとのことでそれだけ口にした俺だったが、不運にも俺のなけなしの抵抗は、 平野レミのヤクルト魂に火を付けることになる。
「お代はいただきませんから! ……カズ君アレお出しして!」
 平野レミが顎でしゃくった。客には下手だが部下には高圧的に出るタイプと見た。もうこれだけでも俺がこのおばさんの魔手(魔手といっていいだろう)から逃れられないのは明白なのだが、サンシャイン池崎風もそうなのか、笑顔でおばさんのいいなりになっている。愛想笑いが顔面の奥にまで染み込んでいるような男で、きっとこいつの家には嫁及び生まれたばかりのベビーなぞがいて、そいつら養うために必死こいてレミやら客やらに毎日へりくだってるんだろうなぁ、と暗たんたる気持ちになった。
 この瞬間ほど嫁はおろか彼女すらいない自分を幸運に思ったことはない。
 いつの間にか俺の手にはヤクルトパック(@一週間セット)がパスされていて、俺はこれをパスし返さなきゃいけないと焦るのだが、サンシャイン池崎風の「本日はひとまずプレゼントいたします」に完封されてしまう。
「でもさすがにタダってわけには」
 なおもごにょごにょといい募ると、平野レミ風味が話の矛先を変えるように、突如背後の女を押し出した。
 あ、忘れていた。
 もう一人いたんだっけ。
 二人の影になるように隠れていたので、ずっと気付かなかったのだ。
「来週はこの娘が伺いますから、そのとき契約するかどうか決めていただいて結構ですよ! この娘高田さん、この地区担当になった新人さんなの、かわいいでしょ、よろしくね」
「よ、よろしくお願いします、た、高田です」
 顔を上げた高田さんと目があった瞬間、俺は雷に打たれたように動けなくなった。
 そこには『百坂檸檬ももさかれもん』がいた。

※※※

「で、そのヤクルトレディーが、地下アイドルの百坂檸檬ももさかれもん似だったからっていう理由でヤクルト契約しちゃったわけ?」
 ドルオタの考えることはわからん、と人のことはいえないゲーオタのよつばさんがいった。
 よつばさんはゲームオタク、それもオンラインゲーム専門のゲーオタで、彼とはかの有名な『モンスターハンター』で知り合った。よつばさんは典型的な「ネカマ」で、オンラインゲーム内ではいつも女キャラでプレイしている。そうするほうが仲間が集めやすく、また、アイテムをもらえる確立が高くなるのだそうだ。「中身はこんなおっさんなのにな」がよつばさんの口癖だ。ちなみに俺も画面の向こうのよつばさんに舞い上がっていたことがあるという、痛恨の過去を持つ。よつばさんとは今でも「よつばさん」「キリト氏」とハンドルネームで呼び合う仲だ。
「キリト氏金大丈夫なん?」
「愛があれば大丈夫」
「金で買った愛だろ」
檸檬れもんたんはそんなんじゃない!」
 俺は憤慨したが、早くも酒に飲まれつつある俺とは対照的に、よつばさんは枝豆片手にどこ吹く風だ。
 こういう仕草がいちいち絵になる男だった。
 ゲーオタのくせにこいつは若手俳優の『山崎賢人』にそっくりで、今の嫁とも『モンスターハンター』のゲーム内結婚式をきっかけに、リアル結婚に至ったというオタクの風上にも置けない奴なのだ。
 だが格差社会もここまでだ。
 俺には檸檬れもんがいる。
 それだけで今までこいつに被った汚辱が覆される気がする。
「来週も檸檬れもんが俺に会いにくるんだ」
 よつばさんが肩をすくめてみせたが、俺の心は早くも一週間後に浮遊していた。

※※※

 それからの俺は毎週がライブだった。
 毎週月曜になると檸檬がピンポーンとインターホンを押し、俺に糞の調子(正確には腹の調子)を尋ねてくる。
 檸檬と糞の話をする日々。
 アイドルと糞の話をできる男が果たして世の中に何人いるだろうか。
 いわんや俺の糞の調子を把握しているアイドルが!?
 俺にはそうした性癖はないのだが(ないはずなのだが……)、檸檬と糞について語り合った夜は必ず『TENGA』が活躍した。
 檸檬は俺のようなドルオタにも分け隔てなく接してくれる優しい女だった。
 当然だ。
 俺は檸檬にさんざ奉仕してきたからな。
 ライブにも足蹴く通ったし総選挙のときはCDを何十枚も買った。プレゼントにも『THE BODY SHOP』の入浴剤やらせっけんやらといったおしゃれ消耗品をチョイスするというきめ細やかさ。
 その愛がようやく還元されたのだ。
 アイテムと時間を吸い取るだけ吸い取って実は男でしたというよつばとは雲泥の差だ。
 はっはっはっざまーみろよつば!
 これが真実の愛というものなのだ!
「あ、その猫かわいっすね」
 少しでも玄関ライブを引き延ばしたいから、というわけでは決して、決してないのだが、俺はボールペンの先で揺れている猫のラバーストラップを目敏く指さす。心なしか『モンスターハンター』に出てくるアイルーに似ている気がする。アイルーとは『モンスターハンター』の猫型マスコットキャラクターのことだ。
「あっ」
 檸檬の顔にかすかな狼狽の色が浮かんだような気がしたのだが、檸檬ははにかみ屋だから、俺に話しかけられて照れているだけなのだろう。その証拠に檸檬は伝票から目を離しもしない。「実は超猫好きなんですよ〜」
 はい今月のお代2419円の領収証です、と告げる声はほとんど耳に入っていなかった。
 超猫好きなんですよ〜ってか!
 檸檬!
 檸檬!
 檸檬!
 今度猫グッズあげるからね!
 俺はすっかり舞い上がっていた。
 そう、あの悪夢のような瞬間に立ち会うまでは……。

※※※

「お〜、キリト氏、おまえここで何やってるんだよ」
『イオン』のフードコートで突如よつばさんに声を掛けられた。同じ町内に住んでいるとはいえ、飲みの席以外でよつばさんに遭遇するのは珍しかったから、俺はひどく驚かされた。
「何って、猫グッズ」
「猫グッズ? 何それ」
「檸檬に」
 皆までいわせずよつばさんがあ〜! と合点した。
「……ったく、ほどほどにしとけよ」
 うるさい。
 散々アイテムと時間を俺から搾取したおまえが何をいう。
「あ、お〜い」
 よつばさんが遠くに向かって手を振る。
「嫁と子ども。ついでだから紹介しとくよ」
「えぇ!? いいっ、いいよ!」
 リア充の思考回路は理解できんとよつばさんを振り払おうとしたそのとき。
「あっ、重富さん!? わたし高田ですっ、高田! えっ、やだキリトさんてこの人のこと!? やだ〜それならそうと早くいってくれればいいのに!」
 ど/う/い/う/こ/と/だ/こ/れ/は。
 嫁が俺をちらと盗み見る。
「キリトっていうからてっきり『ソードアートオンライン』のキリト君みたいな感じかなって思ってたら……」
 彼女の膝元にはよつばさんそっくりの男の子。
 よつばさんのミニチュアと手を繋いでいるのは、まぎれもない、俺んちの玄関先で毎週ライブをしていた「百坂檸檬ももさかれもん@高田さん」だった。
「ほら、この人ママのお仕事先のお客さん、重富さん。あいさつして!」
「こにちは!」
 舌足らずな声が返ってくる。
 って、「てっきり『ソードアートオンライン』のキリト君みたいな感じかなって思ってたら……」のてっきりってなんだ、てっきりって。
 あぁ!?
 キリトきゅんみたいな中世的美少年じゃなくてドン引きしましたってか、あぁ!?
 二十九歳ワーキングプア舐めんな!!
 失意なのか驚愕なのかわからない感情で俺の心は完全に行き場を失っていた。
 それでも俺は、起死回生のチャンスを狙うべく、息も絶え絶えよつばさんに尋ねる。
「よつばさん、よつばさんの名字って……」
「あ、高田だけど?」
「金返せ!」
 俺は捨てぜりふを残すと脱兎のごとく週末のフードコートから逃げ出した。
 おまえにつぎ込んだアイテムと時間と嫁につぎ込んだヤクルト代返せ!
 俺はヤクルトを解約しようと、強く、強く誓った。
(2018年1月 書き下ろし)
2018-03-25 : ■掌編/短編 : コメント : 17 :
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紫蓮

掌編強化月間と称して、四月と五月の掌編は、前後編の二本仕立てでお送りさせていただきます。
これは、ブログ主が中学生の頃に考えた兄と妹の悲恋もので、近親相姦がテーマになっています。とはいっても、近親相姦ものにありがちな、性愛や禁忌に力点を置くのではなく、なぜに「家族」という共同体において兄と妹が惹かれ合ったのか、という、理由付けのほうに焦点を当てていきたいと思っております。
例によって妄想の域を出ていないのですが、書いてみると思いのほか構想が膨らんでしまったので、近日中に長編で書き下ろせたらな、と思っております。
前編は兄の紫蓮しれん視点で綴られていきます。ちなみに18歳です。
それでは、どうぞ。


a1150_000454.jpg
フォト/沢/足成
 
 紫蓮しれんは腰を上げ、白い息をはいた。
 蛇のようにくねくねと折れ曲がった沢が、規則正しい流れをたたえて、横たわっている。
 年中寒冷な空気に覆われた『北のむら』だが、早朝は一段と冷え込む。肌を突き刺すような冷気に手はかじかみ、血の滞留した耳は、早くも苦痛を訴えかけてきている。
 それでも水は生活の基盤になるものだから、これしきのことで弱音を吐くわけにはいかない。長に連なる家の者といえど、男子である以上、その責務から逃れることはできない。その長も急逝して久しい。母も後を追うようにして死んだ。
 紫蓮しれんに残された家族は祖母と妹だけである。
 残りの桶にもたっぷり水を張ると、紫蓮は肩荷棒かたにぼうの前後に桶を通し、肩に担いだ。
 紫蓮の足取りは重い。
 肩に掲げた桶のせいなどでは無論、ない。
 邑には妹がいるからである。
 あれと顔を合わせるのかと思うと、気が重くなる。
 皆が忌避する水汲みを、紫蓮がむしろ率先して請け負うのは、自らに責務を課すことで、内に巣食う罪状が少しでも薄まるような気がするからである。
『北のむら』の全戸に、未だ井戸が行き渡っていないことに見られるように、『北の邑』は、昔ながらの素朴な生活を実直に守り抜いている。
 それは、『北の邑』の住人が、自然の運行を大事にする一族だからだ。
 風の教えに耳を澄まし、水の流れに身を委ね、火の揺らぎに未来を灯し、土の沈黙に命を還す。
 それが『北のむら』の摂理だからだ。
 摂理とは自然にほかならない。
「自然」は絶対だ。
「自然」には逆らってはならぬ。
 逆らったが最後、紫蓮は人のみちうしなってしまうことになる。
 よりによって実の妹に劣情を抱いているなどと。
 ──どうしていえるだろう?

※※※

「兄さま」
 おかえりなさい、といって妹が駆け寄ってくる。周りは、同じく水汲みから戻った男衆おとこしと、それを出迎える女衆おんなしゅうで賑わっている。
 いつも通りの、朝の広場の風景だ。
 紫蓮しれんはそれとなく周りを見渡すと、気掛かりそうに自分を見上げる妹になど目もくれず、素っ気なくいった。
「私のことは気にしなくていい。おまえは持ち場に戻りなさい」
 兄妹二人で育ったからかもしれない、妹は、女であるという理由だけで、兄の力になれない自分を、恥じているようなところがあった。
 でもそれも事実のほんの一側面に過ぎず、本当は自分のこの態度こそが、妹を必要以上に感じやすい性格にしてしまったのだと、紫蓮は思っている。
 妹は目を伏せ、「分かりました」と小さく呟くと、女たちの輪の中に戻っていった。
 兄である自分と接しているときなどよりよほど朗らかな表情で、談笑に応じている。
 紫蓮はそれを見届けると、宅への道のりを急いだ。

※※※

「ただいま戻りました」 
「お戻りになられましたか、若長殿」
 祖母の摩耶まやが火桶の向こうから紫蓮をねぎらった。祖母の周りには数名の侍従。
 先代の長である父が、思いもかけず早く亡くなったので、祖母及びむら人たちは、父と紫蓮、両名をおもんぱかって、紫蓮を「若長」と呼ぶ。紫蓮としては少々面映おもはゆくもある。
「新月の晩はとうとう婚礼ですな、若長殿」
 もう何度目かになるか分からない祖母の言葉に、紫蓮はよどみのない口調で「ええ」といい切った。高齢の祖母が、そのことだけを生きがいにしているのを、紫蓮は承知している。むげにはできない。
桃姫とうき殿と祝儀を挙げれば紫蓮殿も無事、長じゃ。若長、などとはもう呼べなくなりますなぁ」
 ほほほ、と祖母がしわだらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
 周りの侍従たちも続く。
「これで子を為せば『北のむら』も安泰じゃ」
「おばば様も気の早いことですこと」
 心中穏やかでない紫蓮の内心を読み取って、というわけでもないのだろうが、侍従の一人である蘇摩そうまが口を挟んだ。「若様もたじたじになっておられるではないですか」
 そのように映っているのならむしろありがたい、と、紫蓮は蘇摩そうまから汁碗を受け取った。蘇摩は兄妹二人の乳母でもある。母にも等しい、というほどではないが、幼い時分より何かと世話になっているので、敬うべき大事な人間だ、とは思う。
「ときに華漣かれん様はどちらに?」
桃姫とうき殿と一緒におるのじゃろうて」
 婚約者の桃姫とうきと、妹は友人同士でもある。
 紫蓮の顔が憂慮に曇ったが、それも火桶からもくもくと立ち上がる煙に、かき消されてしまった。
「ほら噂をすれば」
 途端、すすけた屋内に月明かりが射すようだった。
 身慣れたはずの女衆おんなしゅうですら、ほう、と息を漏らす。
『北の邑』の住人は、銀髪に紫の瞳が特徴だが、その中にあっても華漣かれんは群を抜いている。髪は月光を縫い止めたかのようなけぶった銀、瞳は紫蓮の青みを帯びたそれとは対照的に、赤みを帯びた瑠璃の紫である。
「さぁさぁ、朝餉をいただきましょうぞ」
 妹の視線を頬に感じたが、紫蓮はいつも通り何気ないふうを装って、汁碗を唇に押し当てた。

※※※

「紫蓮!」
 小動物を思わせる俊敏な動きで飛び込んできたのは、婚約者の桃姫とうきである。紫蓮は桃姫とうきを脇から抱え上げると、軸足を使って旋回した。桃姫が歓声を上げる。桃姫は小柄で軽いから、腕力かいなぢからに自信のある紫蓮にとって、このくらい、なんてことなかった。
「婚礼の衣装が届いたの!」
 地面に着地した途端、桃姫がぱっと顔を輝かせた。
「そう、よかったね」
「あまりうれしくなさそう」
「男だもの、男がそんなことで表情を崩したらみっともないだろう?」
 本当は誰よりも早く君の婚礼姿が見たいんだ、と告げると、桃姫が打ち明け話をするように、紫蓮の耳に唇を寄せた。
「見に来てくれる?」
「もちろん」
 連れ立って桃姫の宅に向かっていると、ばったりと華漣かれんに出くわした。
「華漣!」
 親友の姿を認めた途端、桃姫が華漣の元へ駆け寄っていく。年齢以上に大人びた華漣と、どうかすると年齢以上に幼く見える桃姫がそうやって寄り添っていると、母子のように見える。
「婚礼衣装が届いたの!」
 先ほどと同じせりふを妹相手にも繰り返す。続く言葉も、また同様であった。「華漣も見に来てくれる!?」
「ええ、もちろん」といって、首を縦に振りかけた華漣だったが、ふと兄の存在に気付いたように、紫蓮をうかがった。紫蓮が目顔でうなずくと、華漣はほっとしたような表情を浮かべた。「それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」
 衣紋掛えもんかけに吊るされた婚礼衣装は、まるで白い巨鳥を思わせた。
 白地に銀糸の縫い取りが、豪華ではあるが清楚な印象を与える。鳥の翼に見立てた両袖には、羽根を模した精緻な刺繍。桃姫の、十字に腕を開いた荘厳な姿が、目に浮かぶようだった。
「きっと似合うだろうね」
 紫蓮としては桃姫に向けていったもりだったのだが、妹が横で「そうね」と同意を示した。
「そうかしら」
 当の本人はというと、気難しい顔で着物をにらんでいる。
 婚約者の異変を察知した紫蓮は、またか、と内心で息をついた。
 天真爛漫な桃姫だが、彼女は時折、妙に意固地になることころがある。
 華漣も、親友の悪癖がまたぞろ顔を出したのを感じ取ったのだろう、「何をいっているの」、それとなく桃姫をたしなめた。桃姫が頬を膨らませた。
「だってわたし、チビでしょ。チビがこんな衣装着て、衣装に着られているみたいにならないかしら。儀式のここぞ! って場面で、足を取られたりしないかしら」
「変なこと心配するのね。誰もそんなことは思わないし、儀式のときだって、きっと兄があなたにうまく付き添ってくれるわ」
 華漣が同意を求めるようにじっと見据えたので、紫蓮は仕方なく、小さくうなずいてみせた。
「それに、チビ、だなんていうけれど、あなたはむら一番の美しい女よ」
 まるで母親だ。
 おおよそ、十六歳の娘が浮かべる表情ではない。
 自分が華漣を、必要以上に聡い娘にしてしまったのだと思う。
 だが当然ながら思慮は外に出さない。
「邑一番の美人はいい過ぎよ。それに真に美しい女とはあなたのような人のことをいうのだわ、華漣。……ねえ、あなたもそう思うでしょう、紫蓮?」
 思いもかけず水を向けられた紫蓮は、とっさに桃姫を慰める言葉を持たなかった。
 二人きりのときだったら、いくらでも歯の浮くようなせりふで、桃姫をなだめてやることができる。
 だが今は、妹がいた。
 紫蓮は苦慮した末、ようよう口にした。
「今期の『雪の乙女』は君だった、桃姫」
「前期は華漣よ。それはともかく……」
 恋人の言葉に納得しかねるように、桃姫がなおも着物から目を離さずにいった。
「こういうのは、華漣のほうが似合うような気がするのよね」
「まだそんなことを……」
 華漣が眉をひそめたが、桃姫は親友の言葉には耳も貸さない。
「わたしが着ても、『ちょっといいな』で終わっちゃうのよ、きっと」
「そんなことはないよ」
 突如割って入った紫蓮に、女二人が同時に顔を向けた。
 桃姫にいい聞かせるように、というよりは、紫蓮はむしろ華漣を排斥するようにいい放った。
「この衣装は君にこそふさわしい。君は私の花嫁になる女なのだから」
 桃姫が、いつものように歓声を上げてくれたなら、言葉も宙に浮くことはなかったのかもしれない。けれど桃姫が押し黙ってしまったので、変な空気になってしまった。桃姫は照れているのだった。
 人目もはばからずやり過ぎたか、と紫蓮は後悔したが、紫蓮としてはこういうよりほかなかった。人目とはもちろん妹のことであるが、こうでもしなければ、桃姫はいつまでたっても駄々をこね続けるような気がしたのだ。
 華漣は微笑んでいた。
 兄とその恋人の、不器用なやりとりを優しく見守る、「妹」の顔に見えた。

※※※

 何度目かになるか分からない寝返りを打った紫蓮は、とうとう眠りを放棄し、表に飛び出した。
 夜気は一段と冷え込んでいた。
 だが煮詰まった思考を解きほぐすには、むしろこのくらいがいい。
 雲間の隙間から、あえかな月が顔をのぞかせている。
 あの月が闇にのまれる晩、紫蓮と桃姫は夫婦になる。
 だが、浮き足立つ周囲とは裏腹に、紫蓮の心は日に日に重くなっていく一方である。
 桃姫はああいうが、桃姫は自分が思うほど器量の悪い女ではない。
 というより、桃姫は誰の目に見ても、はっきりと美しい女であるといえた。
 肌は透けるように白く、桃姫の好奇心をそのまま写し取ったかのような紫の瞳は、生き生きと輝いている。そのくせして唇は、雪中から顔をのぞかせた毒芽のごとく、蟲惑的で妖しい。
 何より桃姫の魅力は、その肉体にある。邑の男衆おとこし共がさんざ卑猥な言葉で語り尽くしてくれた。さすがに本人にそれを伝えるのははばかられるが、それだけに、彼女を早く妻に迎え入れてやらなければならぬという、焦りも募る。
 そう、紫蓮だとて、あの美貌と肉体とを独り占めできる悦びと無縁というわけではないのだ。
 何より、自分に全幅の信頼を寄せてくれる桃姫は、愛らしくかわいい、と思う。
 それは、桃姫を何よりも「愛している」、ということにほかならないのではないだろうか。
 妹にはただの一度もそのように感じたことはないので、自分が妹に抱いている感情は、「愛している」というのとはやはり少し違うのだと思う。どだい、妹にはかわいげというものが欠けている。
 にもかかわらず、妹の何がこうも自分を惹き付けるのか。
 皮だ。
 肉だ。
 妹の心と外界とを隔てる、肉のほろに、紫蓮は魅せられている。
 紫蓮は、妹の内面になぞ一切興味がなかった。
 妹への想いが、例えば繊細な情緒の入り込む余地のあるものならば、まだしもだったかもしれない。
 紫蓮が妹への秘めたる想いに苦しんでいるのは、ただ一点、その想いが肉親に抱かざるべき、下卑たものだからだ。
 紫蓮が桃姫との婚姻に臆する一方、一方では積極的でもあったのは、桃姫と夫婦になれば、この劣情も消え去るのではないかという、淡い期待があったからだ。
『北の邑』では、婚前交渉は固く禁じられている。
「兄さま」
 獣欲が、皮膚の内側を食い破ってきたようだった。
「どうされたのですか」
 淫情が、形を伴って目の前に現れたからである。
 後ろめたさに紫蓮は、とっさに目を反らせた。
「……どう、とは……、ただ、眠れなくて、夜風に当たっていただけだ。おまえこそどうした、女がこんな夜更けに」
 妹は、気を悪くしたようだった。
「女にだって眠れない夜というものはあるのです」
 珍しくいい張る妹に、紫蓮は意表を突かれた。紫蓮同様、華漣もまた、自分一人の胸だけに想いをとどめ置くことができなくなったものらしい。こういうところは、よく似た兄妹といえた。解き放たれた矢のように、今宵の華漣は開けっ広げだった。
「昼間のことを、思い出していました。……とても見事な婚礼衣装でしたね」
 華漣がまるでそこに婚礼衣装があるかのように、闇をのぞむ。
「わたしも早く着てみたい……」
 あまりに予想外の言葉に、紫蓮もまた驚きを隠せない。
「おまえが?」
 兄の反応など先刻承知だというように、華漣が諦観染みた一瞥いちべつを兄にちらとくれた。
「興味なぞないのだと、自分でもずっとそう思っていました。外面を飾ることよりも、沢の流れに心遊ばせるほうが安らぐというような、そんな女ですから。けれどあれは別格です。花嫁になる女のためだけにあつらえられた神の衣……、まさにその言葉こそふさわしい。桃姫が胸躍らせるのもよく分かります。あれは女の本能です。わたしでも袖を通してみたくなる」
 おまえの一番美しい姿は、おまえのその裸身にこそある。
 三人で衣装を囲んでいたときから、ずっと思っていたことだった。だが紫蓮は、自分の浅はかな想いを、耳あたりのよい言葉で空虚にねじ伏せる。
「おまえもじき、その日が来る。それまで女を磨き、自己研鑽に励みなさい。良き伴侶に巡り会える、その日まで」
「伴侶……。わたしにも、そのような方に巡り会えるときが来るのでしょうか。兄さまにとっての桃姫のような、良きひとに」
 紫蓮の言葉尻を捉えるように、華漣がささやいた。もの問いたげな瞳が、紫蓮の紫の瞳を貫く。
「それは、ここで問答しても仕方ないことだろう。今日はもうお休み。夜気は身体に響く」
 息苦しさを振り払うように、紫蓮が足を返したときだった。
「兄さま」
 兄の背中を妹が捉えた。
「兄さまは寂しくないのですか」
 紫蓮の無言の問いかけに、華漣が同じ言葉を別の側面から繰り返す。
「……わたしたちが離ればなれになってしまうことです」
「大げさだな、宅を移るとはいえ、同じ邑内だ、いつだって会える」
 華漣の静かな勢いに気圧されるように、紫蓮が早口で説き伏せると、華漣が余計意地になったように、首を激しく横に振った。
「……そういう、ことではなく……、いえ……なんと申し上げればよいのか……」
 そうすれば答えが落ちてくるのではないかというように、しきりに頭を振りかぶる。紫蓮の目の前で、銀色の髪が闇に溶けて、さやさやと音を立てた。
「桃姫に、兄さまを盗られてしまうような……」
 華漣の言葉に、紫蓮は息を詰めた。なぜか自分の気持ちの一側面をいい当てられたような気がして、心がざわついた。だがそう感じたも束の間、続く言葉は、紫蓮を闇に失墜させるに十分なものだった。「桃姫に、兄を、たった一人の家族を、と……、盗られてしまうのではないか、と……。おかしいですわね、今日のわたしは……」
 つかみかけていた手を、一方的に振り離されたようだった。足元も定かではない闇に、紫蓮は一人取り残される。
 紫蓮は込み上げてくる憤りとも怒りともつかぬ感情を飲み下すように、喉を震わせた。
「不安に思うことはないよ。私たちは離ればなれになっても、血で繋がっている。私たちは」
 最後は半ばやけだった。
「私たちは、兄妹なのだから」
「ええ、ええ……、兄さま」
 涙目の妹に、笑顔が咲いた。
 紫蓮にとっての戒めが、華漣には慰めとして響く残酷。
 華漣の心なぞ欲しくないと思っていた。
 それなのに今、華漣の心が自分とは違う事実に、打ちのめされている。
 紫蓮は手が白くなるほど、拳を強く握り締めた。
 消えてしまえ。
 早く月と共に、自分のこの矛盾も、闇にのまれてしまえ。
 弧を描く月が、紫蓮をあざ笑っていた。
 婚姻の日は、着々と迫りつつある。
(2018年1月 書き下ろし/後編に続く)
2018-04-25 : ■掌編/短編 : コメント : 16 :
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華漣

掌編強化月間と称してお送りさせていただく、兄妹もの悲恋の前後編の後編は、兄に代わり妹視点でお送りさせていただきます。
兄から妹視点に移行することによって、前編からは見えてこなかった兄の姿や、逆に前編では語られることのなかった妹の胸中が補完されるような作りになっていればいいですね。
一見ほんのり未来が感じられるようなラストになっていますが、実はこれが悲劇の幕開けとなるのです。
が、それは少し先の話。
ひとまずは、性愛を知る前の兄妹の行方をお楽しみください。
それでは、どうぞ。


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フォト/沢/足成
 
 婚礼の儀はつつがなく執り行われ、兄と桃姫とうきは無事、夫婦になった。
 高らかに顔を上げ、毅然と前を見据えた桃姫は、蛹が蝶になるように、一足飛びに大人の女へと変貌を遂げたようだった。凛とした桃姫のたたずまいに、誰しもが明るい未来の到来を夢見た。
 だが華漣かれんは、式の間中、ずっと心をかきむしられるような、いわれのない胸騒ぎに駆られていた。
 なぜ、と問われても分からない。
 強いていえば、兄の姿に、だろうか。
 心もち青ざめた顔で桃姫の陰に控えた兄は、陽性の美を醸し出す桃姫とは裏腹に、終始陰性のひずみのようなものを放散させていた。そこだけ沈んだように、兄の周りだけ、重くよどんだ空気が滞留していた。
 兄の美貌には、昔から、むらのどの男にもない、けがれ、のようなものがあった。それは、兄の魂から発散されているのだ、としかいいようのない、因果のようなものだった。
 幼い頃から華漣は、兄の因果に自分と共通のものを見いだし、できることならその因果を重ね合わせみたいと強く願ってきたものだが、悲しいかな、兄はその因果を妹である華漣にではなく、親友である桃姫に預けた。
 当然だ。
 兄の紫蓮は、幼い頃から桃姫一筋だったのだから。
 こたびの兄と桃姫の婚姻に、実は邑の、女衆おんなしゅうの多くが、ひそかに胸を痛めた。表立って口にはしないが、邑の女たちは皆、兄にうつつを抜かしている。
 兄がまとう秘めやかな気配に、女たちは惹かれるようなのだった。女という生き物は、秘密の匂いに、ことさら自分の幻想を糊塗するものなのだ。
 兄自身は色恋沙汰に関しては非常にひたむきなところがあって、桃姫以外の女には見向きもしなかった。女たちも女たちのほうで、兄を前にすると、小鳥のようにおしゃべりな舌を閉ざしてしまうのだった。兄を前にすると、恋心を抱いていること自体がひどく不潔に感じられて、自然と及び腰になってしまうのだという。華漣には、邑の女たちのいい分が、よく分かるような気がした。
 兄の心を独占している桃姫が、邑の女たちに煙たがれる、どころか、絶大な賞讃を浴びているのは、桃姫が女としての圧倒的資質に恵まれているからにほかならない。
 嫉妬という感情は、能力が拮抗する相手にこそ発露されるものだから、桃姫相手には、かえってそうした感情もそがれてしまうのだった。
 前期の『雪の乙女』は、どうしたわけか華漣だったが、桃姫が今期の『雪の乙女』に返り咲いたことで、華漣はようやく正当な評価が下されたと、胸をなで下ろしている。皆の耳目を集めるのは、あまり気分のいいものではない。高座こうざの華漣を貫く、桃姫のあの、闘争心を剥き出しにした射抜くような瞳も。その横で気のない視線を投げる、兄の無関心も。
 あのときの兄の、モノを見るような色のない視線を思い出して、華漣は憂えた。
 桃姫に華漣を傷つけようとか、ましてや華漣をおとしめてやろうなどというような魂胆は一切ない。
 彼女は、その手の安っぽさとは無縁の女だ。
 彼女の心は大空を羽ばたく鳥なのだ。周りと迎合してまで自分の心を殺すことは、彼女にとっては死にも等しい。
 あの日も。
 彼女は自分の挟持を貫くために、華漣に真っ向から向かっていったのだ。

※※※

 それは二人が八歳のときだった。
 その日も華漣は、二人だけが知っている外れの小屋で、桃姫と秘密のおしゃべりに興じていた。
 華漣は、桃姫とうきの話を聴くのが大好きだった。桃姫の話に登場する「桃姫のお兄ちゃん」の様子が新鮮で、飽きるということがないからだった。もっと、と華漣が話をせがんでみせると、桃姫がさすがに話し疲れたというように、うんざりした顔をしてみせた。
「威張ったり、罵声を浴びせかけたり、お菓子を独り占めしたりする人の話の何が面白いのよ」
 一呼吸置いて、思い付いたようにいい添える。「紫蓮は、そんなのとは無縁そうだものね」
 うなずいてみせると、桃姫が頬づえをつき、はーっとため息をはいた。
「いいわねぇ。あんなすてきな人がお兄さんだったら、ほかの男の子がかすんで見えちゃうでしょ」
「かすんで見えちゃう」の意味はよく分からなかったが、華漣が兄以外の男の子に興味を動かされないのは事実だったので、華漣は首を縦に振ってみせた。
「将来は兄とけっこんしたいと思っているの」
 すると、それまでぼんやりしていた桃姫の瞳が、急に、きゅっ、と引き絞られた。
 華漣は自分が、何かいってはいけないようなことをいってしまったことに気付いたが、桃姫の有無をいわせぬ様子に、なんとなく言葉を濁すこともはばかられて、つい口を滑らせてしまった。
「そうすれば、兄と本当の家族になれるから……」
 それは華漣が、親友の桃姫にすら打ち明けず、ずっと胸の奥底にしまっていたことだった。だが華漣は、桃姫の強い意志によって心の扉をこじ開けられ、無理やり秘密をひきずり出されてしまったのだ。
 秘め事は、一度外に出してしまったら、踏みにじられる運命にある。そのことを分かっていたから、華漣は自らの感覚に従い、かえることのない卵みたいに、ずっと秘密を大事に温め続けてきたのに。
「ふ〜ん」
 果たして華漣の嫌な予感は的中した。
 細められた桃姫の瞳の向こうで、意地悪な光が宿ったのを、華漣は見過ごさなかった。
「華漣、いいこと」
 桃姫が華漣の鼻先に指を突き付けながらいった。
「兄妹は結婚できないのよ」
 華漣は喉を引きつらせたが、華漣に言葉を挟む隙を与えず、桃姫はさらに畳み掛けるようにいい放った。
「兄妹は結婚できないの! 分かる!?」
「わたしと兄さまはけっこんできないの……?」
「そうよ」
 勝ち誇ったように顎をそらせた桃姫だったが、涙目になった華漣に、一瞬ひるんだようにも見えた。だが、最後まで自分の主張を覆すようなことはしなかった。
「華漣と紫蓮は、絶対結婚できないの!」
 そのあとは、なんだったっけ。
 華漣がいつまでたっても泣き止まないので、焦った桃姫が一転、華漣をなだめに回ったのだっけ。
 ごめんね、ごめんね、と耳元で繰り返される、桃姫の心配げな声の響きだけはよく覚えている。
 桃姫のことを初めて、少し怖い、と思ったことも。
 華漣はどうすればこの涙を止めることができるのか、分からなかったのだ。華漣の涙の栓は壊れてしまったのか、華漣の意思とはまったく無関係な方向に働くのだった。
 今ならよく分かる。
 桃姫はあのときすでに、兄に「恋」をしていたのだ。
 自分の気持ちに真っすぐな桃姫。
 己の芯を通すため、華漣に真っ向から闘いを挑んだ桃姫。
 華漣は、負けた。
 気持ちの上で。
「摂理」の前で。
 兄妹は「けっこん」できないのだという摂理を、華漣はわずか八歳の桃姫によって、知らしめられてしまったのだった。
 兄と桃姫の婚約が決定したのは、その数日後のことである。

※※※
 
 華漣がなぜ兄との「けっこん」を望むようになったのか。
 桃姫とうきとのあの日の思い出は、自然、もう一つの忘れられない記憶を引き連れてくる。
 あれはやはり華漣が八歳のときだった。
 二つ年上の兄は、その頃はまだ、今ほど邪見に華漣を扱わなかった。華漣の行動を容認する、とまではいかずとも、少なくとも華漣のすることを放任してくれてはいたのだった。華漣はこれ幸いとばかりに、兄の回りをちょこちょこと、よく付いて回ったものだった。
 その日も兄は一人沢に向かっていった。華漣がその後ろに続くのも同様だったが、その日は少しだけ、違った。華漣が、策を練ったからだった。華漣も兄と同じように、務めに参加することできるのだと知らしめてやれば、兄も少しは自分を認めてくれるのではないかと、幼い考えを巡らせたのだ。 
 現場に到着したとき、すでに華漣は息も切れ切れだった。兄は平然としたもので、いつも通り責務を淡々とこなしていく。
 肩荷棒かたにぼうを下ろし、高さのある桶に、水をたっぷり張る。前後それぞれの桶に水を注ぎ終えると、再び桶を肩荷棒に戻す。
 肝心なのは、ここだ。
 並々と水の注がれた桶は、子どもの兄にとってはいかにも負担が大きそうで、華漣はいつも気を揉んでいたのだ。
 けれど今日は大丈夫。
 華漣が、助けるから。
 華漣は肩荷棒を掲げた兄の背後から忍び寄り、桶に手を掛けた。
 すると、途端、紫蓮が均衡を崩し、水をたたえた桶がぐらりと揺れた。桶は肩荷棒をすり抜け、派手に地面に転げてしまった。それだけじゃ飽き足らず、桶は二人を抱き込むように、兄妹を川に引きずり込んでしまった。
 早春の、雪解けの時期だった。
 雪を含んだ水は思いのほか流れが急で、二人の身体はあれよという間に流されていってしまった。
 しんでしまう、と思ったのも束の間、気が付けば華漣は、兄の背中に背負われていた。
 ともに、雪と水にまみれてぐしょぐしょだった。
 運が良かったからなのか兄の機転が利いたからなのか。
 二人は事なきを得たのだった。

※※※

 蘇摩そうまが蒼白な顔で出迎えてくれたのを覚えている。
 急いで火を起こし、水をたっぷり吸った服を脱がせ、用意した毛織りの布に兄妹二人を放り込む。
 ぱたぱたと間を駆けずり回る侍従たちの心配をよそに、華漣は兄と一つの動物になれたみたいな高揚感に、胸を高鳴らせていた。
 こんな近くで兄の体温を感じたのは、初めてだった。
 赤ちゃんの頃はこうして、二人肌を寄せ合うこともあったのかもしれない。けれど父母のいない兄妹にとって、そんな日々はあってなきがごとしだった。乳母の蘇摩は優しい人だったけれど、彼女は自分たち兄妹を、絹にくるんだ献上物のように扱った。つまり蘇摩は、分を弁えたつつましい侍従、ということなのだった。
 祖母の摩耶まやも同様で、華漣にとって、その血の結び目はどこか現実味がなく、実感に欠けるものだった。
 けれど兄は別格だ。
 兄は同じ腹を分かった、同胞はらからなのだから。
 血潮の奥から急激にそんなことが思い出されてきて、華漣はこれまでにないほど、心が満たされていくのを感じた。
 自分が今まで漠然と感じていたうろに、血やら肉やら内臓やら、とにかく何かよく知らないけれど、そうした、命の切片のようなものが、ぎながらみっちり満ちていくのを、感じるのだった。
「兄さま」
 華漣は裸の兄の胸に頬を寄せた。
 兄の胸は、自分とは違って、真冬に立ち並ぶ峻烈しゅんれつな樹のように、真っすぐだった。華漣はここのところ、衣服と胸がこすれる感覚に、これまでにない不快感を感じて憂鬱だったので、兄のおうとつのない胸を、とてもうらやましく思った。と同時に、兄と自分の身体に差異を認めて、とても残念に思った。それとも華漣はいまだ発展途上にあって、これから兄のような身体になっていくのだろうか。
 薄いほろに覆われた、骨や筋の浮き出たきれいな身体に。
「……よせ」
 よせ、と、兄が突如、大人びた口調でいった。
「……よせ、離せ」
 兄がす、と身を起こす。
 屋台骨を一つ失った毛織りの巣が、そこだけずる、と崩落した。
 華漣は、自分の一部を構成する血肉が剥がれてしまったような、底知れない喪失感にとらわれた。
 部屋の向こうに消えた兄を呼び戻すように、華漣はわんわん泣いた。
 声も枯れよとばかりに、わんわんと泣き叫んだ。
 それは華漣の魂の遠吠えにほかならなかった。
 真っ白などこまでも広がる雪原に、ただ自分一人だけが置き去りにされたような心もとなさだった。
 北に行っても西に行っても東に行っても南に行っても、待ち人はいない。
 ただ、華漣一人だけ。
 血も肉も内臓もない、概念だけの真白き平面世界に、華漣は一人取り残される。
 温もりを誰にも分け与えることなく、また、分け与えられることもなく、ただ、際限なく広がる白い闇にのまれて。
 兄さま。
 兄さま。
 その日から、華漣の心は、ずっと兄の温もりだけを追い求め続けている。
 血の温もりを。

※※※

 華漣にとっては、あの毛織りの巣こそが、唯一の家族の記憶に等しい。
 あすこで兄と二人でずっと棲むには、「けっこん」するしかないのだと、唐突にひらめいた。
 他人同士が結婚することで「かぞく」になるように。
 紫蓮と華漣も、「けっこん」することで、「本当のかぞく」になれるような気がしたのだ。
『華漣と紫蓮は、絶対結婚できないの!』
 あの日、幼い桃姫に、摂理を突き付けられるまでは。
 摂理は、圧倒的に桃姫に味方をした。
 紫蓮と桃姫は他人で、紫蓮と華漣は兄妹だったからだ。
 兄と家族になるために、「けっこん」したいと願ったのに、これでは本末転倒だ。
 最初から家族であることを内包している二人にとって、結婚とは矛盾にほかならないのだった。
 だけど、大丈夫。
 華漣は小さい頃の自分にいい聞かせるように、唇を小さくほころばせる。
 兄は、言葉でいって聞かせてくれたではないか。
『不安に思うことはないよ。私たちは離ればなれになっても、血で繋がっている。私たちは』
「わたしたちは、兄妹なのだから」
 もう何度口にしたか分からない兄の言葉を、華漣は今日も繰り返す。
 あの日の兄の言葉が、新たな指針を示してくれた。
 兄がなぜあんなにも自分に対してだけかたくななのか。
 それは分からない。
 幼い頃、しつこく付いて回ったせいかもしれないし、沢での一件があったからかもしれなかった。そして何より、あの日、裸で毛織りの巣に、二人でくるまったからなのかもしれなかった。
 あの日以来、兄の自分に対する態度は、以前にも増して硬化した。
 それらすべてひっくるめて、自分が彼の「妹」であることが、すべての根幹なのかもしれなかった。
 桃姫の話によると、桃姫と二人きりのときの兄は、ともすればこちらがどうかと思うほど、あの手この手で、桃姫を褒めそやしてくれるのだという。
 華漣はそんな桃姫の話を、半ば信じ難い思いで聞いていたものだったが、反面、それが妹と恋人の違いなのかと、妙に納得させられる部分もあるのだった。
「本当、二人のときのあの甘さを、あなたにも分け与えてあげたいくらいよ」
 桃姫の、あけすけではあるが、掛け値なしの優しさを、華漣は心の底からうれしく思った。
 でも……。
 ふいに、声の調子を落として、桃姫がいった。
「でも、わたしの兄は、そうじゃないみたい」
「……?」
 また、いつもの兄へ対する愚痴が始まるのだろうかと、華漣がそれとなく耳を向けると、桃姫が、深刻な表情を崩さずに続けた。
「わたしの兄は、本当に好きだからこそ、臆するんだ、っていうの。本当に好きだからこそ、うまく立ち回れなくなって、不器用になっちゃうんだって。あの、野蛮で無神経な兄が、よ。兄貴ったら、最近ずっと恋煩いなのよ。でも紫蓮は……」
 こんな種類の煩悶もあるものなのか、と幼い頃から兄の無関心に悩まされ続けたきた華漣としては、意外な思いで桃姫の告白を受け止めていた。自分なら、そんなふうに兄に優しくされたなら、天にも昇る気持ちになるに違いない。だが桃姫は恋人で、自分は妹だから、華漣の感慨は、必ずしも桃姫に当てはまるとは限らないのだった。
「……紫蓮は、きっと、何事にも、さじ加減というものが極端な人なのよ、きっと」
 いいながら、これは案外妙案かもしれない、と華漣は内心で得意になった。
「ほら、わたしに対しても、幼い頃からずっとああじゃない? だから、恋人のあなたに対しては、逆に、極端に甘くなってしまうんだと思うわ。あなたのことが大事過ぎて、気持ちが振り切れてしまうのよ」
「そう……だと、いいんだけれど……」
 しかし名案だと思えた華漣の思い付きは、残念ながら桃姫の悩みの病巣にまでは、届かなかったようだった。
 桃姫は、いつからか、こんなふうに華漣には及びもつかない悩みを抱えるようになったのか。
 近頃、何かと華漣を引き合いに出しては、自分と比較してみせるような言動をとることも、華漣としては気になっていた。
 けれどもう大丈夫、と、華漣は気持ちを鼓舞するように、胸に手を当てる。
 兄と桃姫は無事、夫婦になったのだから。
 家族になれば、変わることもあるだろう。
 華漣の心が、兄の声掛けによって、再び命を吹き返したように、桃姫も夫となった兄によって、新たに絆を深めていくこともあるのかもしれない。
 それこそ、華漣には想像もつかないような方法で、夫となった兄が、心に降り積もった桃姫の雪を、溶かしてくれることだろう。
 澄まし顔で、甘い言葉をささやく兄の姿を想像して、華漣はくすりと笑みを浮かべた。

 ──華漣が『南のむら』の若き長から求婚を受けるのは、二人の婚姻からわずか三月後、雪解けの春のことである。 
(2018年1月 書き下ろし/了)
2018-05-25 : ■掌編/短編 : コメント : 15 :
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新説赤ずきんちゃん

掌編も六回目となりました。今回お送りさせていただく掌編はあの有名童話のパロディです。そうです、「赤ずきんちゃん」です。
「赤ずきんちゃん」もそうですが、童話って穿った見方をしようと思えばいくらでもできる、裾野の広さと柔軟性がある気がします。
今回お送りさせていただく「canaria版 赤ずきんちゃん」でも、それ幸いとばかりに、自分の暗い妄想をぶっ込んでおります(笑)
今回のお話は、極めてcanariaらしい物語に仕上がっているように思います。
連載中の「千年相姦」(や「侵蝕恋愛」)とテーマが被る部分もあり、canariaさんが伝えたいことが端的に詰まっているのではないのかと。
ちなみに登場人物の「ルプス」は、ラテン語で「狼」の意らしいです。
それでは、どうぞ。


180623_7.jpg
イラスト/ルプス

 昔むかしある所に、たいそう愛らしい女の子がおりました。
 陶器のように白い肌、亜麻色の柔らかな髪、空を写し取ったような真っ青な瞳……。
 それより何より人目を惹くのは、その子の頭部を彩る真っ赤な頭巾でした。
 手足の白い彼女にその赤はとても映えました。
 人々は親しみと憧憬を込めて、女の子を赤ずきんちゃんと呼びました。
「赤ずきんちゃんや赤ずきんちゃんや」
 と、今日もお母さんが赤ずきんを呼び寄せます。
 いつものおつかいだわ、と思ったら、案の定そうでした。
「お菓子と葡萄酒をお婆さんのところへ届けてちょうだいな」
「いいけど、どうしてお母さんが自分で届けに行かないの?」
 お母さんが少し眉をしかめたような気がしました。
「お母さんにはお母さんの事情があるのよ」
「ところでうちにはどうして父親がいないのかしらね?」
「さっさとお行きなさい。口答えばっかりしていると、日が暮れてしまいますよ」
「はーい」
 どうやらお母さんが頑としてお婆さんのところに顔を出さないのは、よその家みたいにうちにお父さんがいないからであるようだということが分かりました。お婆さんはお父さんのお母さんに当たるのです。つまり、お母さんとお婆さんは、他人といって差し支えないのでした。
 さて、お母さんが「ヒステリー」を起こす前におとなしく引き下がった赤ずきんですが、いいたいことを飲み込めば、そのぶん内に不満がたまるのが人間というものです。
(どうしてうちにはお父さんがいないのかしら)
(お父さんの話になると、どうしてお母さんは不機嫌になるのかしら)
(お父さんがいたとしたら、どんな感じなのかしら)
(お父さんは、きれいな人なのかしら……)
 そんなことを考えていると、いつの間にやら赤ずきんは、大路を外れて見知らぬお花畑に迷い込んでいました。
(いけない!)
 あわてて引き返そうとした赤ずきんでしたが、ふと思い直します。
(二言目には寄り道しないこと、寄り道しないこと、っていうけれど、そんなに寄り道が嫌なら、あの女がお婆さんの家に行けばいいのよ)
 そう考えるといいつけを守るのも急にばかばかしく思えてきて、赤ずきんはお花畑に仰向けになるのでした。
 空は抜けるような晴天。
 木漏れ日が赤ずきんの頬を踊り、花々の間を蝶が舞います。   
 一路お婆さんの家を目指していたら、絶対に目にできない光景です。
 お母さんに反抗することで、初めて赤ずきんはこの素晴らしい景色を獲得したのです。
「おや、こんなところに赤ずきんが」
 赤ずきんは度肝を抜きました。
 恐ろしく美しい人が、自分を上からのぞき込んでいたからです。
「ん? 違ったかな。君はあの噂に名高い赤ずきんだろう?」
「そう……だけど……、あんた誰?」
 どうしてわたしの名前を知ってるの?
 というもう一つの疑問は、なんとなく口にするのがためらわれました。
「私はルプス。この辺りで農業をなりわいにしている者だよ」
 不思議な響きの名前。
 それに、とてもじゃないけど、農夫には見えない。
 身なりこそ平凡な農夫そのものでしたが、この青年から醸し出される雰囲気は、農夫という語感とはかけ離れたものでした。
 日に焼けてない肌がまず農夫らしくありませんでしたし、立ち居振る舞いはもっとそうです。ルプスは所作の一つ一つがうっとりするほど流麗で、おおよそ赤ずきん知る土臭い農民とは別物だったのです。
「籠からのぞいてるそれは、焼き菓子と、それから、葡萄酒だね」
 ルプスがやおら興味を示したように赤ずきんの横に居座りました。
 男の人どころか父親とすら接したことのない赤ずきんはどぎまぎしました。
 何しろルプスときたらとってもいい匂いがするのです。
 後ろで一つにまとめたルプスの髪が赤ずきんの肩をくすぐります。赤ずきんはなんだかとっても恥ずかしい気持ちになりました。
「赤くなってる。どうしたの?」
 ルプスの指が赤ずきんの頬に触れます。
 とっても馴れ馴れしい人。
 でも、嫌な気持ちにならないのはなぜだろう。
 いけない娘だな、こんな昼間から寄り道ばかりか、葡萄酒を浴びるなんて。
 違う、お酒なんて一滴も飲んでない、それに顔が赤いのはお酒のせいなんかじゃない。
 反論しようとしたけれど、小鳥よりも口達者なはずの舌が、今日に限ってまったく動きません。
(どうしちゃったのかしら、わたし)
 気が付けば青年の顔を間近に臨んでいました。
 赤ずきんは青年に組み敷かれていたのでした。
 ルプスの舌が赤ずきんの歯列を割って入ります。
 いつの間にか半開きになっていた赤ずきんの唇は、青年の侵入を許してしまっていたのでした。
 膝が割り入れられ、自分の身体があらぬ形に折り曲げられていきます。
 最初、赤ずきんは、それを酒瓶だと思いました。
 硬くて筒のような形状をしていたからです。
 でも、酒瓶と違ってそれはとっても熱いのでした。
(葡萄酒が沸騰してる、とか? でも、そんなの聞いたことないし……お婆さんに届けるのは、いつも冷えたお菓子と瓶詰めの葡萄酒……)
 と、横目で籠の中にしっかりそれらのものが収められているのを認めて、赤ずきんは目を割れんばかりに見開きました。
(違う、これは、酒瓶じゃない!)
「やぁあぁあ……ん」
 叫んだつもりでしたが、語尾には、御し難く甘やかな響きが入り交じっていました。
「やっと気が付いたかい?」
 青年──ルプスです──が、先ほどまでの涼やかな顔はどこへやら、凄みのある微笑をたたえて赤ずきんを見据えます。
「柔らかそうで、おいしそうで、ずっとこうしたいと思っていた。そろそろ食べ頃かな、と思ったら、君のほうから顔を出すんだから」
「あんた誰よ……!」
「君がずっと会いたがっていた人」
 そして君自身でもある。
 今度こそ……。
 青年の声が遠のいていきます。
 次に目覚めたとき、赤ずきんは、先ほどと同じようにお花畑に寝転がっていました。
 顔の横には、手付かずの焼き菓子と葡萄酒。
 蝶がのんきに周りを行き交っています。
(白昼夢だったのかしら)
 起き上がった途端、足の間に鈍い痛みを感じました。
 あれが夢じゃなかったことを赤ずきんは思い知りました。
(体裁だけでも取り繕わなきゃ)
 お母さんのヒステリーが頂点に達すると、赤ずきんでも手が付けられなくなるからです。
 お母さんの折檻と比べたら、下腹部に感じる……それもどこか甘やかですらある……痛みなど、たいしたことはないと思えるのでした。

※※※

 お婆さんの家の前に立ったとき、赤ずきんは、いいしれぬ異変を覚えました。
 何がどう、といえないのですが、感覚がざわついて、じっとしていられない感じです。
「お婆さん!? わたし、赤ずきんです。入りますよ!」
 いつもは口うるさいお母さんのいいつけを守り、あいさつとノックを欠かさない赤ずきんですが、このときばかりはそうもしていられませんでした。赤ずきんは半ば体当たりをするように身体を中に滑り込ませました。
 果たして赤ずきんの嫌な予感は当たっていました。
 お婆さんの寝台には、ルプスが腰掛けていたのです。
 それも、女装をした。
「やぁ」
 青年、ルプスがほっかむりを取りました。
 長い髪がばさりと音をたてて落ちます。
 赤ずきんと同じ亜麻色の柔らかな髪。
 瞳の色も同じ青です。
 片足を立てた不遜な格好が、なぜかルプス青年にはしっくりくるから不思議でした。女装をしてるのも、これはこれで悪くないと思えてくるから面妖なものです。つまり、ルプスは、どっちつかずなのでした。
「ようやく目が醒めたかい、お嬢さん。そう、私がおまえの祖母だよ」
 そうしておまえの父であり母でもある。
 訳が分からず言葉を継げない赤ずきんをよそに、祖母であり父母でもあるというルプス青年は辺り構わず喋り続けます。
「もう今度こそ二度とお前を外に出さない。絶対に絶対に絶対に。私は産むことも孕むこともできないが戻すことは得意なんだ。今度こそは母としてお前を私のもとに還してみせる」
 足がすくむほど怖くてたまらないはずなのに、ルプスの青い目があまりに寂しげで赤ずきんは逆らうことができません。
 むしろ。
(あんたが寂しいっていうんなら、わたしはあんたのものになっていいわ)
 そう思えるのでした。
 だって。
 だってわたしだって。
「気が付けば父はおらずかといって母にも愛されず、ずっとずっと寂しかったんだもの」
 ルプスが微笑んだような気がしました。
 けれどそれは、ぱっくり開いた口がそう見えただけかもしれず、いずれにせよ、赤ずきんにはもうすでに真偽を確かめる術はないのでした。
 赤ずきんはルプス青年の腹に吸い込まれていったのですから。

※※※

 幾年が過ぎたのか、赤ずきんはもうずっとその盲目の洞窟に棲んでいました。
 ここは多少狭いということをのぞけば、外界の嫌なものすべてから赤ずきんを守ってくれる快適な場所です。
(今までのあんたの子どもが、みんな逃げ出したなんて、嘘みたい)
(どうして君は私から逃げないの?)
 洞窟の岩盤に彼の手が触れた感触がありました。
 赤ずきんは柔らかな肉の壁越し、彼の温もりを感じます。
(ここの居心地がいいから。あんたのことが好きだから……)
(……けれど、みんな、最後には逃げ出していった)
(わたしは逃げ出さないわよ)
(そう、君はほかの子どもたちと違う。自立と称して外界を目指そうとしない。どうして?)
(どうしてどうして、って、あんたもいいかげんしつこいわね。さっきもいったじゃない。ここと、何よりあんた自身が好きだからよ)
(そんなふうにいってくれたのは君が初めてだ)
(ずっとずっとそばにいるわ。ううん、そば、なんてもんじゃないわ。わたしはあんたの一部なんだから)
 だから、ずっと一緒だよ。
 二人の声が重なったような気がしました。
 いえ、それはもはや一人と一人の声ではく、一人と一人の声が癒着した新しい旋律に違いないのでした。

※※※

 しかし閉じられた幸福も長くは続きませんでした。
 岩盤に激しい衝撃を感じた、と思ったときには、それはすでに終わっていました。
 赤ずきんは数年ぶりの陽光に、両目をぎゅっ、と閉じました。
「ああ、諦めずに行方を追っていてよかった。この両性体の忌まわしい悪魔めが! 村の女に手当たり次第自分の子どもを産ませては、腹の中に食い戻していたんだ。まったく、恐ろしい男だよ」
 君、立てるかい?
 猟銃を抱えた精悍な若者が手を差し伸べます。
 けれど赤ずきんにはどうでもいいことでした。
「あんたなんてことしてくれるのよ!」
「えっ?」
 感謝されこそすれ、罵倒されるとは夢にも思わなかったとみえる青年は、ひどく面食らったようでした。
「わたしはずっとこの人の胎内で幸せだったの! すべてから身を隠し嫌なことすべてから目を逸らしこの人の食べるものすべてを無作為に摂取しこの人の感覚感情そのすべて余すことなく共有していたの! それをあんたは……!」
「君が何をいっているのかさっぱり理解できないよ。僕は君を助けにきたんだ。もうずっと行方不明になっていると噂の美貌の赤ずきんを」
「そんなの知ったこっちゃないわ! わたしはこれからどうやって生きていけばいいのよ!」
「どうって、やっと自由になれたんだよ? その猟奇の犯罪者、ルプスの腹の中から……」
「ルプスは犯罪者なんかじゃないわ!」
 猟師の言葉を遮って赤ずきんが激昂しました。
 赤ずきんの激しさに、ふと不信感を抱いたように青年が眉をひそめました。が、直後に、表情を柔らげます。赤ずきんを憐れんでいるようにも見えました。
「……犯罪者と一緒にいると、君みたいになるって聞いたことがある……かわいそうに、あまりの恐怖に、ルプスに依存することで自分を守っていたんだね。けれどもう大丈夫、数年ぶりの外界が怖いっていうんなら、僕が君を守ってあげる。なんなら君は僕のお嫁さんになって……」
「あんたの女になって、それで何!? また自分一人の頭で考えて自分一人の足で立って自分一人で歩く、そんな日々に戻れっていうの!?」
「それの何が嫌なんだ」
「すべてよ! わたしは自立なんてしたくないの! しなくてよかったの! それをあんたが……!」
 赤ずきんは悲痛な産声を上げました。
 ルプスの腹の中にいた幼い少女はもうおらず、そこには、成長した自分がうずくまっているだけ。
 ルプスの羊水を浴びた、一人の大人の女が。
 彼が、目の前のこの忌まわしい男が、ルプスを殺してしまったから。
 ルプスがいない、この自立した自分だけが残された世界で。
 ルプス一人だけがいない、この世界で。
 わたしはどう生きていけばいいのだろう。
 わたしは、どう生きれば。
(2018年1月 書き下ろし)

2018-06-25 : ■掌編/短編 : コメント : 20 :
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場外

今回の掌編はですね、何……っていうかいろいろ唸らされる作品です。や、すごいという意味で唸らされるじゃなしに、恥ずかしくて正視できないっていう意味の。
3月の掌編に引き続き2回目の現代ものなんですが、自分つくづく現実を舞台にした話向いてない……思いました。
今までわりかし自分は物語に自分を反映させるほうだと思っていたんですけれど、この話では反映させまい、反映させまいと必死になっている自分がいました。結果、自分が存在しない、訳のわからない話になりました。一応無理やりそれっぽくはまとめてますが、完全にこじつけです。
それから、「雅姫」さんはですね、いわゆる主婦雑誌で人気のモデルさんというか、タレントさんというか、(でもテレビに出てるとかではない)そういう方です。カフェに置いてあった雑誌で知りました。
それから、バブルと90年代が完全にごっちゃになっています。42歳だとバブル世代ではないんじゃないかな?
本来のバブル世代はもう少し上のような気もします(50〜60歳くらい?)
まあでも最近の芸能ネタとか現代のアレをいろいろぶっ込んではみました。それでは、どうぞ。


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フォト/駅前/足成
 
 里麻はお気に入りのトートバッグをずしりと満たす重量感をかみ締めながら、エスカレーターを下っていった。
 パート帰りに駅前の図書館に寄るのが最近の里麻のお気に入りだ。駅前再開発に伴い、市の図書館が駅前大型複合施設『ゆめプラザタウン』に吸収されたのだ。帰宅ルートに図書館が組み込まれたことで、里麻の読書量は飛躍的にアップした。
 読書といっても、里麻が読むのは小説ではなく、もっぱらガーデニングとか雑貨とかインテリアの関連の書籍だ。色鮮やかなフォトで彩られたそれらの雑誌を無為に眺めるのが好きなのだった。ネット検索だとつい偏りがちになってしまう里麻の指向を、紙の書籍は解きほぐしてくれる効果がある。思わぬ発見もあり、借りた雑誌が付箋の草を生やすこともしばしばだった。それに目にも優しいし、と四十二歳になる里麻は、そのかすかに小じわの浮かぶ口元に笑みを浮かべた。
 息子の成長に従い里麻もずいぶん一人の時間を持てるようになった。小さい頃の息子を恋しく思うことがないわけではなかったが、あんな地獄のような日々は二度とごめんだ。子育ては人生の大部分のエネルギーを費やすと思う。
 そんな里麻の手を煩わせた息子もはや中学三年生だ。
 息子は好意的に見れば堅実なのだが要は上昇志向がない。
「頭いい高校行って無理するよりそこそこの高校で余裕もったほうが絶対いいし」
 とは息子の口癖だが、その口上通り息子は受験勉強に身が入る様子もない。もうひと踏ん張りすればワンランク上の都立高校を狙えるものを。
 イマドキの子だなー、と思う。
「悟り世代」とやらか。
 里麻が中学生の頃はそれこそいい高校に行っていい大学に入って東京の出版社に就職して……、と際限なく展望を膨らませたものだったが、これも時代なのだろう。昔は喫煙する女がなんとなくかっこいいと思って煙草に手を出したこともあったものだが、今じゃどうかすると喫煙も「ダサい」扱いだ。時代は変わった。安室ちゃんも引退したし、と、若い頃はひそかに「アムラー」で鳴らした里麻は、パート帰りということもあり、黒のコンバースでおとなしくまとめた足元をしょんぼり見下ろした。
 豆腐と白菜が冷蔵庫にあったから今日は湯豆腐にしよう、と思う。
 時短料理だから、少し余裕がある。
 里麻は『ゆめプラザタウン』に引き返した。
 一階のファッションフロアに立ち寄ろうと思ったのだ。

※※※

 相変わらずの代わり映えしない店構えに里麻はげんなりした。
『Lee』、『アースミュージック&エコロジー』、『イーハイフンワールドギャラリー』、『ABC-マート』、『チュチュアンナ』、『無印良品』。いずれも、里麻本来の指向には程遠い顔触ればかりだ。
『Lee』にしろ『アースミュージック&エコロジー』にしろはたまた『無印良品』にしろ、ターゲット層を主婦に狙い定めているのが見え見えで鼻につく。
 自然体のワタシ、ちょっとぜいたくな大人の普段着、おしゃれを忘れないママスタイル、がんばり過ぎないオトナ女子ファッション、ロハス、北欧、北欧、北欧……。
 うんざりする。
 里麻は立て看板を蹴り倒したい衝動に駆られた。
 落ち着け、四十二歳のわたし。
『雅姫』さん似のわたし。
 夫は「それ絶対お世辞だって」と茶々を入れるが、真性ブスに人は「『雅姫』さんそっくり!」なんていわないものだ。少なくとも、その名を口にしても場が凍らない程度の容姿ではあるということだ。里麻はそういい聞かせるようにしている。四十二歳ともなれば世辞もありがたく受け入れるのが大人の女のたしなみというものなのだ。
『雅姫』さん風にダークブラウンに染めた髪を後ろでひとまとめにして、髪留めをさりげなくあしらう。さりげなく、というのがポイントだ。『雅姫』さんはビーズとかスパンコールで「デコっ」た下品な髪留めなんかは絶対使わないのだ。トップスはモノトーンのボーダーカットソー、だがベーシックな定番アイテムながら、首周りがボートネックになっているところがポイントだ。これで「こなれ感」が一気にアップする。それに今はやりのワイドパンツを合わせて足元はあえてのコンバースでラフに締める。これが、四十二歳パート主婦の「大人のこなれ感」なのだ。
 と今日の自分の着こなしをシミュレートして悦に浸っているときだった。
 里麻はふいに甲高い声に呼び止められて足を止めた。
「里麻、里麻じゃない!?」
 里麻は目を凝らして女の顔を見た。
 気合いの入った巻き髪に、黒のニットワンピースとニーハイブーツといういでたちの女である。ブーツのヒールは十センチはくだらないだろう、昔の里麻ならいざ知らず、今履いたら確実にこけてしまう。
 やぶにらみ気味の里麻の目を覚まさせようとするかのように、女がお〜い、お〜い、と手を左右に振りかぶる。
「わたし、わたしエリだよ、エリ! 元・アムラー仲間のエリだよぅ〜!」
「えっ! エリちゃん!?」
「そうだよぅ〜、なんなのリマっち、すっかり様子変わっちゃって〜どこのすてきなママかと思っちゃったよぅ〜」
 ママには違いない。
 すてきかどうかはともかく。
「エリちゃん!? 本当にエリちゃん!? びっくりした、若い女の子に声掛けられるから誰かと思って……確かによく見るとエリちゃんだ。その喋り方、エリちゃんだよ。びっくりした、変わってないね。本当に二十代の女の子かと思った、割と素で」
 エリは「そんなことないよ〜」と謙遜するように手を振り仰いでみせるが、そうする所作もいちいち華やいでいる。
 よくよく近寄ってつぶさに観察してみると、「あ、けっこう歳いってるな」と分かるのだが、雰囲気が若やいでいるのだった。人は細部より全体を見るものだ。
「そのニットワンピすてき。どこで買ったの?」
 里麻はあいさつもそこそこにずけずけと尋ねた。二人は、こうしてよくファッションについて語り合ったものだ。時間が、二十年前に巻き戻されたようだった。
「え、これ『しまむら』だよ。1560円。このGジャンも『メルカリ』で安く譲ってもらったんだ。最近Gジャン、っていうかデニム生地自体落ち目じゃん? 里麻が履いてるみたいなワイドパンツに押されてさ。でも思い切って着てみると案外Gジャンもまだまだいけるって再確認できるよ。別にダサくないでしょ?」
「うん、ダサくない」
 Gジャンに包まれた両袖を突き出すその爪先にもネイルがあしらわれていて里麻は感心する思いだった。里麻の視線に気付いたようにエリが爪を目で示した。
「これは『ジュネル』っていうの」
「『ジュネル』?」
 初めて聞く単語に里麻は首をかしげた。
 ネイルチップなの? 重ねて問うと、エリが首を横に振った。
「ネイルチップはネイルチップけど、これはちょっと違うかな。ネイルチップとジェルネイルのいいとこ取りっていうか、ほら」
 エリが『ジュネル』を剥がしてみせる。
「こんなふうに水も剥離材も使わずに、どこでも着脱可能なの」
『ジュネル』の下の爪はトップコートのみという簡素さだ。
「ふーん……、そんなのがあるんだ」
 息を漏らす里麻に、エリが『ジュネル』を「再装着」しながらいう。
「リマっちはなんかすっかりナチュラル系女子になったね。一瞬見間違いかな、って思ったけど、リマっちはスタイルがいいからすぐ分かった」
「スタイルいいっていうか、単に水分と油分が抜けてしょぼしょぼになっただけだよ。脚の筋肉は落ちるし張りはなくなるしで……」
「あのねぇ、リマっち、そんな理由でもしナチュラルファッションに逃げてるんだったら、エリ、怒っちゃうよ」
 二十代の頃と同じ詰問口調でエリがいった。自然、里麻も及び腰になってしまう。
「だってわたしももう四十二だし今さら厚底ブーツなんて履けないよ。安室ちゃんも引退したし。わたしたちの時代は終わったんだよ。受験生の息子だっているし、イタい人にはなれないんだよ」
「息子ちゃんは関係ないでしょ。それに、厚底ブーツに拘泥するからおかしなことになっちゃうんだよ。ニ
ーハイ程度だったら全然ヘーキヘーキ」
 ほら、このニーハイだって『しまむら』で買ったし、と、頼みもしないのにまたも値段とセットで口にする。
 そうなのだ、里麻も、悪くないな、とは思っていたのだ。
 エリの着こなしが。
 確かに「誰がどう見てもイタくない人」というわけにはいかないが、ショッピングモールに出没するぶんには問題ない感じなのだ。それでいて九十年代の匂いもあって、その時代に青春を謳歌した里麻にとっては好みのど直球といってもいい。
「黒のニットワンピはいいよ。ムートンブーツと合わせれば今の里麻みたいな普段着カジュアルにトーンダウンもできるし、わたしみたいなギャル風味にもできる。ストッキングと合わせてきれいめヒール履いたら息子ちゃんの授業参観でもいけるよ」
 エリがスマートフォンを里麻の目の前にかざしてみせる。
「ほら、海外のモデルさん。ニットワンピにニーハイブーツ。全然下品な感じしないでしょ?」
 里麻は食い入るように画像を見た。エリと同様の組み合わせながら、『インスタグラム』で微笑むモデルは、エリのギャル風の着こなしとは一線を画して上品なイメージだ。髪型とメイクをぐっと抑えたものにしているので、総体としてシックな印象を受けるのだ。
「時代のいいとこを取りをしつつ時代回帰すればいいんだよ。ファッションなんてここ数十年はリバイバル、リバイバルなんだしさ。なんだったら最近の若い子はバブル時代に憧れがあるみたいだし」
 里麻は、最近話題になった、ワンレングスの髪を振り乱しながら見事なダンスを披露してみせた女子高生ダンス部の動画を思い出した。『バブリーダンス』と銘打った斬新でアグレッシヴなダンスは、『YouTube』でも2500万再生を記録したのだったか。
「だから、里麻も思い切っちゃえばいいんだよ。それにね」
 と里麻が秘密めかした小声でいう。
「わたしたちくらいの年齢になると、男も女も女子高生もみーんな、人畜無害なものを見る目でわたしたちを見るようになるんだから。二十代の頃はそれこそお互いを監視し合うみたいに、着こなしを張り合ったものだけど、そんなのはもう終わったんだよ。『場外』の今だからこそ、二十代の頃以上に自分の好きな格好をしたいなって思うのよ」
 あ、ダンナ、といって、エリが後ろを仰いだ。
 いい方から、きっと籍を入れたオトコではないのだろうな、と思った。何人もの『ダンナ』が控えているような軽やかさが、そこにはある。
 普段の里麻だったら眉をひそめていたかもしれないそうした事柄を、今日の自分は自然に受け入れていることに気付く。
「じゃあ、またね」
 連絡先すら交換せず、二十年越しの再会は終了した。
 もう、会うこともないだろう。
 それでも青春が一瞬交錯したことがずいぶん里麻に活気を与えていた。
 里麻は急ぎ最上階の図書館まで引き返した。
 インテリア、雑貨、ガーデニング。
 本当は、さほど興味はなかった。
 ただ、世間がイメージする「四十二歳の主婦像」の鋳型に自分を当てはめようとしていただけ。
 トートバッグの重みを消し去るように里麻はそれらの本を全部返却すると、足早に『ゆめプラザタウン』を後にした。受付の女性が里麻を不審げな目で見たが気にならなかった。
 湯豆腐を食べたら早速大人のギャルファッションについて検索してみようと思う。
 息子はひやかすかもしれないが、案外あっさり受け入れてくれるかもしれない。
 だってわたしたちはがんばってきた分、「場外」で羽を休めてもっと自由に自分を満喫していいはずだから。
 里麻は軽くなったトートバッグを片手に、電車に乗り込んだ。
(2018年1月 書き下ろし)
2018-07-25 : ■掌編/短編 : コメント : 14 :
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canaria

Author:canaria

オリジナルの世界観を絵や物語(小説)で表現しております。 千年相姦/ブログにて毎月1日と15日に連載中。 侵蝕恋愛/BOOTHにて随時刊行中。 空の終焉/未発表作品。

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素敵な作品をありがとうございました。
20160320.jpgwebアンソロジー季刊誌「carat!」Vol.1 創刊号
20160524.jpgwebアンソロジー季刊誌「carat!」Vol.2 夏号
20160924_1.jpgwebアンソロジー季刊誌「carat!」Vol.3 秋号
20160924_2.jpgwebアンソロジー季刊誌「carat!」Vol.4 冬号

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